戦国時代の水城築上技術を今に伝える 〜 大溝城跡 〜
天下統一を目指した織田信長は、交通の要であった琵琶湖水運を固めようと考え、長浜城(秀吉)・坂本城(光秀)を造らせました。 そして自身は安土城を築き、琵琶湖対岸の大溝には甥の織田信澄に命じて大溝城を造らせ、琵琶湖を取り囲むネットワークを築きました。
当時の城は山城が普通でしたが、信長が築かせた四つの城はいずれも水際に築かれた水城で、経済活動をも考えたものでした。
大溝城が完成したのは天正六年(一五七八)年で、その縄張り(設計)を担当したのは明智光秀とされています。
しかし、大溝城完成の四年後に本能寺の変が起こり、光秀の娘婿であった信澄が岳父光秀に呼応して蜂起するかも知れないと恐れられ、出兵先の大坂城で追い詰められ自害しています。 その後、大溝城主は数年ごとに変わりましたが、築城から二十年ほどして取り壊されたと言われています。
元和5年(一六一九)に大溝の地に入封した分部光信は小大名であったことから城を持つことが許されず、今の陽光の里あたりに陣屋を構えて政治を司りました。
今は石積みだけしか残っていない大溝城ですが、水城の面影を残す戦国時代の貴重な遺構とされており、二○二八年には、大溝城築城四百五十周年を迎えます。
(2022.05)
注:大溝城跡へは、介護老人保健施設「陽光の里」の向かって左端の幅2mほどの道を進んでいくと、まもなく左前方の石積みが見えます。