日本古代の3大クーデターの内、2つの終焉地 〜 乙女ヶ池 〜
安曇川・鴨川がつくった高島平野、その最南端部、しらひげ浜水泳場の北側にある乙女ヶ池は、昭和四十年頃まで地図には「洞海」と記されていた内湖です。
古代には「勝野の鬼江」と呼ばれていたとか、万葉集には「香取の海」と歌われていた記録が残ります。
この乙女ヶ池周辺では、千三百五十年前に大津京が滅びることとなった壬申の乱(じんしんのらん)の戦が繰り広げられ、近江軍が負けて乱が終焉したと伝わっています。
それから約百年ほど経った天平宝字八年(七六四)には、奈良の都で勢力を誇っていた恵美押勝(藤原仲麻呂)が勢力争いに負け、琵琶湖西岸を逃げ回った挙げ句、乙女ヶ池から琵琶湖に逃げようとするところで家族もろとも殺されたとされています。(恵美押勝の乱)
壬申の乱と恵美押勝の乱は、藤原広嗣の乱と合わせて「日本の古代の三大クーデター」と呼ばれることがありますが、古代の大事件の二つが乙女ヶ池周辺で繰り広げられたということは日本の歴史上特筆すべきものがあります。
この地で二つもの大事件が起こった背景としては、池の背後の三尾山が琵琶湖に迫り出しており、高島の平野部を湖岸沿いに南に下ってきても、山際を通って南下してきても乙女ヶ池付近の狭隘なエリアを通らざるをえないことが、その理由と考えられています。
現在の乙女ヶ池周辺には、このような日本史上重大で怖い歴史があったとは思えないようなのどかな風景が広がっています。
(2022.10)
注:今年は、壬申の乱1350周年に当たる為、大津市歴史博物館で企画展「大友皇子と壬申の乱」特別展が開催されます(10/8日-11/23日)。